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山梨県(やまなしけん)は日本の県の1つ。周囲を富士山、赤石山脈(南アルプス)、八ヶ岳、奥秩父山地などの海抜2000mを超す山々に囲まれた内陸県である。
明治以来用いられる全国八地方区分では中部地方および中央高地とされているが、現在では隣の長野県と共に甲信地方、それに新潟県を加えた甲信越地方として扱われることが多い。
また富士山を介して静岡県などと共に東海地方、神奈川県と共に南関東、そして首都圏であるため関東地方として扱われることも多い。(三重県が全国八地方区分では近畿地方であるものの中京地方、東海地方としても扱われるのと同様である)。
位置関係から静岡県東部と同様関東地方への傾斜が目立つ。全体的に、東京都・長野県中南部・静岡県東部3方との交流が盛んである。
武田氏は平安時代後期の源頼朝の挙兵に従い甲斐国の守護となる。鎌倉幕府滅亡後に北条時行ら北条氏の残党が起こした中先代の乱までは北条方に属し、以後は足利尊氏に従う。戦国時代には武田信玄が登場する。この時期最盛期を迎えた甲州金山の経済力に支えられ四囲に勢力を伸ばし織田信長との決戦を前に病死した悲運の名将として知られるが、笛吹川を改修し信玄堤と呼ばれる土木工事を施し甲斐の国力を高めた民政家でもあった。信玄死後10年で武田氏は織田氏に滅ぼされる。
武田氏滅亡後は織田氏家臣の河尻秀隆の領土となるが、信長の死後に空白地帯となると徳川家康の領土となる。家康が豊臣秀吉が帰服すると関東へ移封となり、甲斐へは豊臣氏の浅野長政が甲府城に入る。
関ヶ原の戦いの後に江戸幕府が成立し、長政の子の浅野幸長は和歌山へ移封となり、家康の九男の徳川義直の領地となる。甲斐は関東に近いことから関東防衛の要所として重要視され、その領主は将軍直系かあるいは代官を置いて幕府が直覧した。
その後、将軍の子の徳川忠長が入り、支藩の谷村藩も生まれる徳川綱重、綱豊(徳川家宣)など徳川家の領地を経て、柳沢吉保の領地となり、吉保の転封後は天領となる。江戸時代には甲州街道が整備され、甲府も代官所の城下町として整備される。
江戸時代中期には郡内地方(都留郡)の農民が米価の値下げを求めて米屋の打ちこわしなどを行い、騒動が広まり甲斐一国騒動(甲州郡内騒動)と呼ばれる百姓一揆に発展する。 明治維新では近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(新選組)と新政府軍が勝沼で激突した。
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